口碑によれば、景行天皇四十年、日本武尊東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村海岸近くの古杉老松の森に小祠を建て、国常立尊、豊雲野命、国狭槌命を奉斎し、征途の無事案内を祈願したと伝えられる。中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、正親町天皇の御世、永禄三年の頃、北条氏の寵臣で太田道灌の曽孫太田新六郎康資の知行の時、東潮田村の杉山社、西潮田村の御嶽社を領地神社として、社殿を改築し社頭を整備したといわれる。正保年間に至り地頭松下孫十郎が幕府の命により、社殿を改築、寛文十年幕府社領一段四畝二十歩を寄進したという。延享元年の鳥居、寛政元年の拝殿の棟札等により当時の当時の模様を知ることができる。
明治に入り、井田方鎮座須賀社(素戔嗚尊)、小野新田鎮座稲荷社(豊受比賣尊)、向原鎮座菅原社(菅原道真公)、田方鎮座神明社(天照大御神、弥都波能賣神)を御嶽社に合祀、上居村鎮座若宮八幡社(誉田別尊)浜端鎮座白山社(岐久理比賣)弁天下鎮座厳島社(市杵島比賣命)を杉山社に合祀された。大正初期、京浜工業地帯の一大発展に伴い、耕地整備・区画整理による街造りの為、大正九年東潮田村の杉山社と西潮田村の御嶽社を合併し、潮田地区の中心地点である現在地に鎮座、潮田神社と改称された。
大正十二年関東大震災により拝殿倒壊、昭和二十年戦災により社殿焼失と被害を被る。昭和五十九年現社殿造営平成元年社務所新築、同五年鳥居建立、同十八年宮神輿再興なる。