[参拝のしおり]
生命の親神 總産土神 藤野町名倉鎮座
石楯尾神社
御祭神 石楯尾大神 (石楯尾神社に鎮まる神様)、産土神、伊邪那基幹神、天御中主神 (高皇産霊神 神皇産霊神)、天常立神、国常立神、天照座皇大神、大歳神、猿田彦神、菊理姫神 (幽産土神=速玉男神 事解男神) 、事代主神、日本武尊、守良親王 (亀山天皇の皇子) 、その外多くの神々
由緒 大事な事
一、神籬磐境 二、エボシ岩 三、国史所載社 (文徳実録) 4、 延喜式 内社 五、総社 六、明治六年よりの郷社 七、昭和四十三年より神奈川県神社庁献幣使参向神社
この世のはじめ、天地創造の折に、神々が国の鎮めとなさっておくだりになった、天然の神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあった。ここが富士神界( 肉体ある人の世より前の霊体の神神の世)の中心地・高御座であった。 (相模の国の奥津宮=総産土神) このエボシ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここが産土路にあたり (石楯が粘板岩でここが変成粘板岩) 古代人が神を斎きまつった所・斎庭として人々の崇敬の中心となり、崇神天皇より古くから総産土神としてお社が設けられた様であり、高位の神々様が数多くお鎮り遊ばされて居り、応神天皇の御幸所で御造営があったとも伝えられ、文徳天皇天安元年五月、丙辰・従五位下の神とし官社に預った事が文徳実録にある国史所載社で、だいご天皇の御代延喜の制では式内小社に列した延喜式内社で、安徳天皇寿永元年には藤原左府広信が勅宣を蒙って再興し、大将軍源頼朝が祈願所として七つの大鳥居を建て、御黒印七十五石余を寄進し、後柏原天皇文龜三年には関白殿下十六世後いん監物大夫陽近が勅使として、本殿並に拝殿、幣殿、玉籬、二天堂二王門、随神門七十五ヶ所、表僧坊十六院末社七ヶ所を造り終えたと伝えられている。
奥三保十八ヶ村川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村の総社( 山梨県に多くの氏子) として崇敬されてたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永録十二年十月十八日、武田信玄のため社殿全部が烏有に帰して、古記録まで焼失してしまった事はまことに惜しい事であった。後に再建されたが享保六年二月、祝融に災され、現在の社殿は、中御門天皇享保九年に建築されたもので、光格天皇文化五年六年には神祗管領卜部朝臣より幣はくが献上してあり、明治六年、社格制定に際し郷社に列し、明治四十四年十一月十七日ね末社が合併されたが、実態は境内移転だったので現在も境内神社として残ってる。
大正十二年二月五日、神奈川県告示第二十六号により、神饌幣帛料供進指定神社に指定され、第一回の例祭が関東大地震の九月一日であった。天安元年五月に官社に預った日も地震の日であった事を考えると、何か天地の自然現象を司り給う大歳神の御鎮座と不思議な関連がある様に思はれてならない。
昭和二十年十二月十五日、神道指令により社格廃止となり、昭和二十年十二月二十八日、宗教法人令による神社宗教となり、神社本庁に所属し、昭和二十七年十二月二十二日宗教法人法の神社として登録を完了した。
昭和二十三年一月二十四日、神奈川県神社献幣使参向神社に指定された。
これらの事を証明する様に、古代人の住居跡や、縄文時代草創期の一万年前のれき器( 石器) ・縄文土器・弥生土器も出土して居り、甲相( 山梨県と神奈川県) 開発の文化の中心地としての総産土神の御加護の証明もあり、往古より河内・野崎・倉田・和智・宮野・中村・鈴木・浜名・山崎・森久保等の諸氏が広い地域に居住して、ずっと栄えて来た様である。各氏の居住地には必ず小氏神をまつり、敬神崇祖により世の平安を祈りつづけた様である。
例祭日 八月二十六日
特殊祭 霊開きの祭 (毎月満月の日)
建造物 本殿 神明造 銅板葺 面積 四・四二平方米
幣殿 木造 銅板葺 面積 一七・八平方米
拝殿 木造 銅板葺 面積 二〇・七平方米
随神門 木造 銅板葺 面積 一八・〇三平方米
祖霊社 木造 亜鉛板葺 面積 四九・三平方米
休憩所 木造 亜鉛葺 面積 七九・三平方米
手水舎 木造 銅板葺 面積 三・三平方米
鳥居 石造 黒木型 間口 一・八三平方米 高さ 三・八米
おみこし 木造 寄棟 間口 〇・四五米 全高 一・三米 明治元年五月 愛甲郡半原の住矢内但馬守藤原高光の作
境内神社 八幡神社 蔵祖神社 春日神社 天満天神 日月両宮 稲荷神社 浅間神社御嶽神社 住吉神社 榛名神社 疱瘡神社 大国様
宝物 相模国高座郡津久井県名倉村 石楯尾神社 蔵王大権現に、神祗管領卜部朝臣良連より文化五年二月二十三日・文化六年四月十五日に献上したもの弐箇
以上