当神社では、江戸時代に別当をつとめていた真観寺が火災に遭い、古い記録の一切が失われたため、その来歴は審らかではありません。
往昔、源義家が八幡太郎と名乗って、前九年・後三年の両大役 (一〇五一年から一〇八七年) に勝利を得、関東に一大勢力を築いて以来、源氏一族は八幡神を氏神としてその御神徳を慕い、武運長久家門隆盛を祈ってそれぞれの領地に八幡社を建立致しました。当八幡神社も、この地区の住民たちが両大役の折、源氏方の将兵の宿泊に民家を提供したり兵糧を提出したりして協力したことに対し、源氏一族が感謝のしるしとして建立したものとつたえられます。
以来今日まで当神社は氏子の崇敬極めて篤く、村民の中心として栄えてきました。特にしばしば匿名の篤志者による多額の奉納があり、その霊験のあらたかさは今でも遠く氏子外の人々にも知れわたっております。また大島村は江戸時代までは川崎山王社 (現稲毛神社) の氏子でもあり、現在も同社に伝わる格式高い重儀「宮座式」の重要な所役を担っております。この一事を見ても当地区が古くから川崎郷全体の中枢的な役割を果たしていたことが推察されます。
昭和二十年四月の戦禍で、本殿をはじめ全ての建造物を焼失しましたが、その復興も極めて順調に行われました。そして現在は、大島地区の鎮守として多くの参拝者をあつめ例祭をはじめとする祭事行事も氏子崇敬者の連帯協力により逐年盛大に執り行われていることは喜ばしい限りです。また、境内には「大島新田記念碑」 (大正四年建立) 「伝桃記念碑」 (大正四年建立) などがあり、郷土の先人達が成し遂げた偉業を今に伝えています。