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神社詳細
瀬戸神社 (せとじんじゃ)
 瀬戸明神 (せとみょうじん) 
所在地住所 〒236-0027
神奈川県横浜市金沢区瀬戸18ー14
電話番号 045-701-9992
FAX番号 045-701-9994
ホームページ http://www.setojinja.or.jp/
メールアドレス shamusho@setojinja.or.jp
[ 瀬戸神社 ]
※ご注意:システムの構成上、地図のポイントと実際の神社の位置に多少の差異があります。

大山祇命   ( おおやまつみのみこと )
速須佐之男命   ( はやすさのおのみこと )
菅原道真   ( すがわらみちざね )
徳川家康   ( とくがわいえやす )
伊邪那岐命   ( いざなぎのみこと )
伊邪那美命   ( いざなみのみこと )
速玉男命   ( はやたまおのみこと )
天照皇大神   ( あまてらすすめおおみかみ )
倉稲魂命   ( うかのみたまのみこと )
菊理比売命   ( くくりひめのみこと )
木花咲耶姫命   ( このはなさくやひめのみこと )
味耜高彦根命   ( あじすきたかひこねのみこと )
建御名方命   ( たけみなかたのみこと )
猿田彦命   ( さるたひこのみこと )

1月1日歳旦祭(さいたんさい)
[鶏鳴神事 (けいめいしんじ)]
3月21日祈年祭(きねんさい)
[春祭り (はるまつり)]
3月21日合祀神例祭(ごうししんれいさい)
[合併祭 (がっぺいさい)]
[鎌倉神楽 (かまくらかぐら)]
5月15日例祭(れいさい)
[瀬戸のまち (せとのまち)]
[神幸式 (おわたり)]
7月7日近い日曜日天王祭(てんのうさい)
[夏祭り (なつまつり)]
[出御祭 (しゅつぎょさい)]
7月9日近い火曜日天王祭(てんのうさい)
[夏祭り (なつまつり)]
[三ツ目神楽 (みつめかぐら)]
7月14日近い日曜日天王祭(てんのうさい)
[夏祭り (なつまつり)]
[巡幸祭 (じゅんこうさい)]
11月23日新嘗祭(しんじょうさい)
[秋季例大祭 (しゅうきれいたいさい)]
12月8日鎮火祭(ちんかさい)
[歳の市 (としのいち)]
12月31日除夜祭(じょやさい)
毎月1日月次祭(つきなみさい)

[瀬戸神社参拝の栞]
 由緒と沿革
 太古、平潟湾は泥亀町から釜利谷町小泉方面にまで入り込み、その中心に潮の干満によって急流を生ずる瀬戸があり、海神が祀られていた。即ち瀬戸神社の起源である。
 治承四年 (一一八〇)、 鎌倉に入った源頼朝が、日頃崇敬する伊豆三島明神を、この霊域に遷祀してからは、「瀬戸三島大明神」と呼ばれて上下の尊信を集め、延慶初年には正一位の神階を受けた。執権北條貞顕、関東管領足利持氏、成氏父子、小田原北條氏等歴代の武門名将の崇敬も篤く、特に足利成氏は何回も参拝し、社頭の弁天島境内での直会の有様も記録にのこっている。
 徳川家康も慶長五年 (一六〇〇)、 みずから参拝して百石の社領を寄進し、元禄以後は領主米倉丹後守をはじめ、金沢八景の中心として江戸市民の間にまで多くの信仰者がひろがった。
 明治六年 (一八七三) 、郷社に列格、戦後は宗教法人となり、昭和四十三年、神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定された。現在の社殿は寛政十二年 (一八〇〇) の建造、御屋根は昭和四年の葺替えになる。
 延慶四年 (一三一一) 神号額
 延慶初年、北條貞顕の盡力によって、朝廷から正一位の神階を授けられた。額裏に「延慶四年辛亥四月廿六日戊辰書之、沙弥寂尹」と銘文がある。沙弥寂尹は書道の名家世尊寺流の藤原経尹の法名である。額縁は後世の補修である。
 元禄十年 (一六九七) 神号額
 右肩に小さく「瀬戸」と陰刻があり、裏面に「元禄十丁丑極月吉日」と記年銘がある。額縁は黒と朱の漆で仕上げ、両側の中央に九曜文の金具を打付ける。九曜は神主千葉氏の家紋である。
 享保三年 (一七一八) 神号額
 当社の古記によると、享保三年三月二十二日、神道管領長上、吉田兼敬参詣のことが見える、額はこの時の揮亳と思われる。右下に「神道長正二位ト部 (花押) 」と陰刻があるが、額縁は失われている。
 文化十四年 (一八一七) 神号額
 寛政五年 (一七九三) 松平定信は海防の必要から、老中として自ら豆・相・房・総の海岸を巡視し、その際したしく当社に参拝し、後に「瀬戸之神社」の神号額を執筆奉納して御神威にこたえた。裏面に「文化十四年十一月五日、左近衛権少将源定信書」と刻銘している。額縁は上縁が左右に長く伸びた特殊な雲形縁である。
 木像大山祇命坐像 (高一五.六センチメ-トル )
 角髪 (みづら) という童形の髪形をとりながら堂々たる髭をたくわえる相貌は他に類を見ない。髭は単なる採色でなく豊頬の半近くまで彫り出した忿怒像で、両肩を後に引き、背筋をのばした躰貌にもととのった威厳が感じられる。南北朝時代の製作とされている。
 木像女神坐像 (高一九.二センチメ-トル)
 小袖に袴をつけて表着をはおり、その上に唐衣風の着物を肩から落としてつ著け、背後には襞のある裳をかけ、背から胸前に掛け帯をめぐらし襟元で結び、半球状の懸守をつけ、やや横坐りの姿勢をとる。顎に一條のくびれのある豊頬であるが眦の上った威厳を示す。全国的にも類例の少ない女神像で、保存良好で彩色もよく遺っている。南北朝時代。
 御祭神
 主神 大山祇命
 伊予国大三島の大山祇神社・伊豆国三島大社の御祭神と同躰で、港のかみ・海上交通の神であると同時に、水源地を司る山の神であり、金属・岩石・木材等の建築資材や、森林・鳥獣に至るまで一切の生活資源は、この大神の恩恵による。
 天孫瓊々杵尊の御后となった木花咲耶姫の御父神にあたり、皇室の外戚として、国土経営にも大きな功績をあらわされた、国つ神の筆頭として崇められている。
 配祀神 須佐之男命 (天王さま) ・菅原道真公 (天神さま)
 合祀神 伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉男命・倉稲魂命・天照皇大神・猿田彦命・味耕高彦根命・建御名方命・木花咲耶姫命・菊理姫命・徳川家康公
 福石
 境内琵琶島神社に至る参道の右側にある。もと社頭の海岸にあり、源頼朝が、伊豆三島明神を勧請し、百日の日参をした時、汀に降りて海水で潔斎するのに、衣服を掛けたというので「服石」とも呼ばれた。江戸時代には、この石の前で物を拾うと、必ず福を授かるとして、江の島神社の福石と同じく上下の信仰をあつめた。金沢四石の一つ。
 飛石
 昇天山 (又、飛石山) 金龍院境内にある。往昔、瀬戸明神はこの石の上に天降ったと伝える。急流の瀬戸を中心として、海神を祀った太古の漁民たちは、この石を神聖な磐座 (イワクラ・神の座) として春秋の祭りを続けていたと思われる。もと山上にあったが、文化九年 (一八一二) の大地震で、現在地に転落した。福石や称名寺境内の美女石・姥石とともに金沢四石と呼ばれる。
 琵琶島神社 (弁天社)
 源頼朝の夫人、北條政子が近江の竹生島明神を勧請したもので、古来琵琶島弁財天と呼ばれる。また立姿の御神像 (室町時代の製作) に因んで立身弁財天として信仰をあつめた。足利成氏参拝記録には船寄弁才天と記す。
 境内の枯木は柏槙の名木で、延宝年間の暴風に冠水して立ち枯れたまま腐蝕せず、三百年前の風致をそのまま今に伝える。
 主な祭礼
 五月十五日��春季例大祭 十一月二十三日��秋季例大祭
 古例社法の記録では「四月・十一月の中の酉の日」が例祭であったが、明治以後、太陽暦により、四月の祭りは五月十五日に、十一月の祭りは新嘗祭 (勤労感謝の日) にあわせて行うこととなった。五月の例大祭には、神奈川県神社庁から献幣使が参向し、本社の神輿が琵琶島弁天社まで渡御、神楽御幣招一座を奉奏する神幸式 (おわたり)が執行される。
 三月二十一日 合祀神例祭
 明治十一年本社に合祀した東照宮、同四十二年に合祀した六浦町内諸社の例祭で、神前にて鎌倉神楽を奉奏する。
 七月七日〜十四日 天王巡幸祭
 六浦全氏子町内を天王神輿が御巡幸になる古来の疫除けの夏祭りで、七日は天王神輿の出御祭、十四日は還御祭、九日には夕刻から「三ツ目神楽」と称して、古式の湯立神楽が行われる。
 湯立神楽
 「湯花神楽」とも「鎌倉神楽」とも云う。もと鎌倉八幡宮に神楽方として奉仕した「職掌 (シキショウ) 」と呼ぶ社人の家に伝わる古式の神楽で、古来、祭礼神事の中心的行事として重んぜられて来た。昔から、この神楽に参列して、沸騰した湯を浴び、または神楽の御幣をいただいて帰ると、無病息災になるとつたえられている。前記天王祭の三つ目神楽の他、朝比奈町熊野神社・釜利谷町手子神社・町屋神社・寺前八幡神社・柴町熊野神社・富岡八幡宮等の秋祭には、古来湯立神楽が行われているが、特に富岡八幡宮の二月・十一月初卯の日の夜神楽は、卯陪從 (うべいじゅう) と称して、鎌倉時代の古儀の伝統をのこすものである。
 社頭掲示板
 大昔、鎌倉時代の頃までは、今の泥亀町・大川町・釜利谷町小泉のあたりまで海が入り込み、「瀬戸の入海」と呼ばれていました。柳町や、六浦町の塩場・南六浦・内川町内のあたりもすべて海のなかでした。そして、洲崎と瀬戸の間は、潮の干満時には急流が渦巻いて、瀬戸橋ができるまでは、容易に渡れない難所だったので、古代の人はここに海神を祭って篤く信仰しました。それが瀬戸神社の起源です。治承四年 (一一八〇) に幕府を開いた源頼朝が、鎌倉の東北方の守りとして、日頃崇敬する伊豆三島明神を、この霊域に遷祀してからは、「瀬戸三島大明神」と呼ばれて、上下の尊信を集め、執権北條貞顕一族、関東管領足利持氏、成氏父子、小田原の後北條氏等、歴代の武門名将の崇敬も篤く、特に足利成氏は何回も参拝し、社頭の弁天島境内での直会の有様も記録にのこっています。当時の平潟湾は「六浦湊」と呼ばれ、鎌倉にとって重要な港だったので、船の出入にしたがって交通量も多く、社頭も賑わって、本社境内での仇討を主題にした謡曲「放下僧」等も生まれました。徳川家康も慶長五年 (一六〇〇) 、みずから参拝して百石の社領を寄進し、その「田畑坪付帳」も現存しています。元禄以後は、領主米倉丹後守の崇敬は勿論のこと、次第に有名になった「金沢八景」の中心にあって、江戸市民の間にまで多くの信仰者がひろがり、松平定信をはじめ白井鳥酔、横井也有、屋代弘賢等の文人墨客や衆庶の参詣で、社頭も賑わいました。明治六年郷社に列格、終戦後神社制度が改められてから宗教法人となり、昭和四十三年神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定されました。現在の社殿は寛政十二年 (一八〇〇) の建造、御屋根は昭和四年 (一九二九) に改築したものです。
 以上
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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