護良親王が弑せられ給うた時、侍者、その御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、ひそかに現本殿の位置に埋葬したと伝える。
親王の御首を洗い清めた井戸を「首洗(くびあらい)井戸」と称し神社付近にある。
井戸の傍の大杉は伐採しても不思議に新芽を生じたが、昭和35年頃焼損した。
御首を一時隠し奉った所を「御墓」といい老松があったが、これも明治末年落雷に焼損した。
四抗とは御首を洗う為の四本杭の簀の子の意、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛という。
社殿は当初西北に向いていたが東海道の往来に支障ありとて現在の東南向きに変えたという。