平安時代後期の創建。祭神景政公は、桓武天皇の(五十代)末裔、平氏一門で鎮守府将軍平良文が祖父。父は鎌倉権守景成。
当時関東には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の所謂関東平氏五家が割拠しており、景政公はこれらの平氏五家と共に、鎌倉武士団を率い、現在の湘南地域一帯を開拓した開発領主。「奥州後三年記」によれば、景政公は十六歳にして源義家に従い、奥州後三年役に金沢の柵(秋田県)を攻めた折、鳥海三郎という者に右の眼に矢を射込まれ、然し彼はひるまずその矢を抜かずして答の矢を放って相手を倒してしまった。そして味方の陣に帰り兜をぬいで「景政手負いたり」と大声してたおれた。そこで味方のこれも亦剛の者、三浦の平太為次という武士が景政の眼に刺さった矢を抜こうと「つらぬき」(毛皮で造った靴)をはいたまま、景政の面部に足をかけた。すると景政は「弓矢に当たって死するは武士の本望だ。なのに土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と刀をかまえてその無礼を叱咤した。
為次驚いてその無礼を謝し膝を以て押さえその矢を抜いた。人々此を見聞し景政の功名いよいよ高しと。
こうしたことから、景政の勇名は鎌倉武士の誇りとなり、御霊神社の祭神として崇められるようになった。
鎌倉時代「吾妻鏡」の中に、文治元年(平家滅亡の年)八月二十七日、御霊社の社殿が鳴動して地震の如くすさまじく、幕府から使者が参向し御願書を奉納して賜物を下し神楽を奏したと書かれており、又その他にも五霊社の記事が多々あるのをみても御霊社はさまざまな奇端の現われる神社として幕府の崇敬の度が厚く、諸行事がこのお宮を中心に行なわれたことがうかがわれる。
江戸時代には眼病平癒、除災招福の神社とされ、現代にあっても景政公の旺盛な精神力は初志の貫徹を祈る人々への厳しい励ましとなっている。