「相模風土記」に、安永九年(一七八〇)、地頭長山氏勧請す、と見えるのは未社金毘羅社の事である。以下本社のそれを記す。
創立の時詳ならざれども後鳥羽天皇の御宇寿永二年、院宣を下し安房国群房庄を社領に寄進せらる。後深章天皇の御代建長二年十二月二十九日、社れい社務方に付再び院宣を賜り、後村上天皇の御時貞和二年、三度院宣を下し社領を安堵せしめられしなど、以て皇室の御尊崇如何に深かりしかを知るべし。
又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐、村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る。現在の御神体である。
明治六年、村社に列す。
以上