[参拝の栞]
亀岡八幡宮縁起書
一、鎮座地 逗子市逗子五丁目二番十三号
一、御祭神 応神天皇
一、御事歴 第十五代の天皇。御父は仲哀天皇、御母は神功皇后。天皇は特に世代の文明開化に意を用いられ、大陸文化の導入に務められた。製鉄・製陶・機織・皮革加工・金工などのすぐれた技術をもつ帰化人を迎え入れ、幾内やその周辺に居住させ、我が国の産業・文化の発展に貢献した。また天皇の時代に、百済から王仁が「論語」と「千字文」を献上され、以後漢字を用いて記録や外交文書なども作製されるようになった。このように、日本の文明史上に重要な御事績を残された御方である。天皇は百才を越える長寿を保たれたと伝えられ、崩御後、豊後国(今の大分県)宇佐の地に、八幡大神として祀られた。現在の宇佐神宮であり、八幡宮の大元である。
一、沿革 勧請の年月は明らかではないが、「新編相模風土記稿」によれば「八幡宮、村の鎮守なり、延命寺持」とある。古老の言によると、昔は真言宗延命寺が別当として管理し、御神体は常には同寺に安置され、大祭にあたってこれを奉持し、行列を連ねて社殿に遷し、祭儀を執行するのが例であったと伝える。明治維新の神仏分離令により同寺の管理から脱し、明治六年十二月、村社に列せられ、正式に逗子の鎮守と定められた。社号は、古くは単に「八幡宮」と称せられたが、昭和二十八年十月、宗教法人亀岡八幡神社として登録され神社本庁に所属したが、常には古くからの慣習で「亀岡八幡宮」と呼称する。
亀岡の称については、当社の境内は、公の地籍上「高畠」という小字になっており、なだらかな岡で、亀の背中のようであったというところから、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対し「亀岡八幡宮」と名付けられたものである。
社殿は、大正八年十二月、「神饌幣帛料供進神社」に指定されたことを記念して、大正十二年二月、現社殿が新築され、その年九月一日の関東大震災に遇ったが辛うじて倒潰を免れ、修覆を加えて現在に至っている。
境内は、もと官有地で、一一一八坪あったが、県道改修のため一二一坪が道路敷に編入され、後更に逗子警察署建設の敷地として二四七坪を接収され(現在は市役所用地になっている)残り七五〇坪が、昭和二十六年五月九日、神社境内地に編入され現在に至っている。
一、末社
稲荷社、萬栄稲荷と申す。宇賀之御魂神を祀る。商売繁昌・家内安全の守護神。もとは今の市役所の南側にあったのを、大正十二年二月十五日、境内に移して新築し、更に警察署(今の市役所入口のあたり)の建設にあたり現在地に鎮座した。
大神宮社、浅間祠 大神宮社は天照大御神を祀る、古くは逗子駅西口前の山上に鎮座していたのを後年八幡宮に合祀された。その跡地にささやかな石祠が残っており、浅間様(祭神木花咲耶姫命)と呼ばれていたが、昭和四十一年五月、境内に移された。
一、祭儀 節分祭 二月節分の日 豆撒きを行い、災難よけを祈請する。祈年祭 三月十五日 五穀の豊作と諸産業の発展を祈念する。この日は昔の八幡宮の祭日である。例祭 七月十六日 氏子の繁栄・無事息災を祈請する。この日は昔の大神宮社の祭日である。 新嘗祭・七五三祈請祭 十一月第二日曜日 新穀の収穫と諸産業の繁栄を感謝する祭。合せて児童の七五三を祝い、その成長を祈請する。
以上