神社情報

1206018

藤沢市

江島神社

えのしまじんじゃ

江島弁天

えのしまべんてん

住所: 〒251-0036 藤沢市 江の島2ー3ー8
電話: 0466-22-4020
FAX: 0466-22-7928

一、御祭神 奥津宮 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・中津宮 市寸島比売命 (いちきしまひめのみこと)・辺津宮 田寸津比売命(たぎつひめのみこと) 御祭神は、福岡の宗像大社や広島の厳島神社と御同神である。天照大神が須佐之男命と誓約をされたとき生まれました神で、御窟の配祀はその御関係によるが、現在御参拝出来るのは右三宮である。この三女神は、江島大神と称し、海運、漁業、交通の守護神とされ、古くは、江島明神と呼ばれていたが、その後仏教との習合によって弁財天女とされ、江島弁天として信仰されるに及び、海の神、水の神のほかに、幸福、財宝を招き、技芸上達の功徳を持つ神と仰がれた。明治初年神仏分離によって純粋の神社信仰に復したが、江島弁天の呼称も信仰も盛んで、家内安全、商売繁昌、事業繁栄等諸祈願を託す人々が多くなっている。二、御神徳 むかし、御窟(おんいわや)を本宮といい、中津宮を上(かみ)の宮、辺津宮を下(しも)の宮といった。また御窟を金窟(きんくつ)ともいったのは、中で金色の光を発したからだとも、また金を採取出来たからだともいわれる。社伝によると、「欽明天皇の御宇、神宣により、詔して宮を島南の竜穴に建てられ、一歳二度の祭祀この時に始まる」とある。これが当社の起源であるが、欽明天皇の13年で西暦552年、丁度仏教伝来の年に当る。文武天皇の四年(西暦七〇〇)、役小角と云う人この窟に参篭して神感を受け、その後泰澄(たいちょう)、道智(どうち)、弘法、安然、日蓮等の名僧が次々行を練り、祈念をこめて霊感を受け、高い御神威を仰いだと伝えられ、神仏習合のあとが著しい。竜穴は七瀬祓の霊所となっていたことが吾妻鏡(鎌倉幕府の公式記録)に記されているが、七瀬とは当時加持祈祷を行なった七つの霊所で、由比ケ浜(鎌倉)、片瀬川(片瀬)、江の島(霊窟)、金洗沢池(田辺池か)、六連[むつれ](武蔵金沢)、杜戸(杜戸の浦今の葉山、森戸)、鼬河[いたち](柏尾の)の七箇所であった。毎年4月初の巳の日、神輿が山上の御旅所に渡御され、10月初の亥の日、御窟に還御されたが、のち御旅所を本宮と称するようになり、社殿は壮麗を極めたが、天保12年(西暦1841)、焼失した。翌13年、再建したのが今の奥津宮御社殿で、昭和54年、御屋根を修復した。中津宮は文徳天皇仁寿3年(西暦853)の創建で、その後、天文18年7月、北条氏綱公修復。元禄2年、再建。昭和55年、改修と度々手が加えられている。辺津宮は土御門天皇建永元年(西暦1206)、源実朝が創建し、延宝3年再建。昭和51年、大改修が行なわれた。神仏習合の頃、金亀山与願寺と号し、祭神は弁財天女とされるに至り、江島明神は江島弁天として世に広まった。近江の竹生島及び安芸の宮島と共に日本三大弁天として宣伝され、その信仰はいまに残る。しかし、この間天つ神としての当社御祭神の御神威はいささかも曇り給うことなく、御神徳はいよいよ広大に仰がれた。即ち、御宇多天皇は蒙古軍を撃ち退けられた御礼のため、江島大明神の勅額を御奉納になり、源頼朝は鳥居を奉納し、北条時政は参篭して奇瑞を蒙り、竜の三鱗を授けられて家紋となし、氏家は社殿を修理する等鎌倉幕府及び武家、庶民の信仰篤く、次いで慶長5年6月、徳川家康御窟に入って祈願してから徳川幕府の崇敬もここに集り、社領35石の寄進があったことなど、その数例に過ぎない。明治初年、仏式を全廃して、純神道に復し改めて江島神社と号し現在に至る。三、御社殿その他 辺津宮、中津宮は権現造りで、奥津宮は入母屋造りである。東郷元帥揮毫の社号標、源頼朝奉納の石鳥居、延享4年建立、文政四年再建の青銅鳥居がある。この鳥居にはかって大弁財天の扁額にかかっていたが明治初年、江島神社の扁額に改められた。他に大勲位松方公爵揮毫の社号額が中津宮にかけられている。辺津宮坂下には昭和11年6月、朱塗した大鳥居がある。中津宮には江戸堺町中村座、江戸葺屋町市村座、江戸新肴場和泉屋甚左衛門らが奉納した石燈篭があり、窟参道鳥居は江戸火消の華「も組」の奉納されたものである。四、御例祭 4月初の巳の日(例大祭)、10月初の亥の日(例祭) 五、御窟 島の入口から凡そ1000米、西南端断崖の下にあって、金窟ともまた蓬莱洞とも云う。すきとおった海水を数10米にわたってたたえる。灯をかかげて進めば路が左右にわかれ、各々の奥に神座がある。時に鳩数10羽この窟中に飛来する。むかしからこうであったと見え、天文2年、左右衛門太夫綱成(さうえもんだゆうつなしげ)の鳩の制札がある。第二霊窟は、御窟の東方25米の絶壁にある。左右2つの窟から成り、深さ25米。打ち寄せる涛の音がこもごも2つの窟にこもって霊気身に染み、むかし参篭祈願のところとして有名。(昭和46年の落石以来危険の為、現在は御窟内での参拝は出来ません)何れも海波の浸蝕作用に依って断層を洗い去って出来たものでわが国でも珍らしい波蝕洞窟と地質学者は述べている。六、御末社その他八坂神社 御祭神 健速須佐之男命、社殿 銅葺 入母屋造 弘化元年建設、例祭 7月14日、御神体は命の御木像であると伝えられている。昔対岸の腰越津村に祀られていたがその年の海嘯に御窟の前に漂着していたのを島人が拾い上げて此処に祀ったといわれている。祭礼は、本社の祭礼よりも華麗を極め、毎年7月7日、神輿が坂下の仮宮に出御、14日には島人が列をなして天王囃子と云う里神楽にて優雅な調べを奏でながら辺津宮より表道を練り弁天橋口の鳥居際から海に舁ぎ入れ、漁師町下の海を浮きつ沈みつ陸では囃子を奏し海では真裸体になって揉み合い、上陸し腰越迄渡御される、非常に賑やかさで湘南唯一の夏祭として有名である。稲荷社・秋葉社 御祭神 豊宇気毘売命 火之迦具土神、社殿 銅葺 入母屋造、秋葉稲荷、与三郎稲荷、漁護稲荷とか島内の随処に祀ってあった小祠を合祀した社である。福石 昔杉山検校が社に参篭して、その結願の日の帰途に、この石に躓き仆れ、松葉の這入っている竹の管を拾って、しかもこの石の上に弁財天女の影向を拝み、管鍼(くたばり)の妙術を授けられた処で、検校はこの術で、時の将軍綱吉の持病を癒して、遂に総検校の職を得て、殊遇を蒙ったといわれている。それからこの石の傍で物を拾えば必ず福運を授かると云う伝えから福石と名付けられたのである。杉山検校の墓 市重要文化財辺津宮参道女坂を下りると検校の墓がある。元禄7年に建てられたもので墓石には前惣検校即明院殿眼叟清権大都と刻まれてあり、毎年5月杉山流の流れを汲む鍼灸按摩マッサージ指圧師の人々により盛大な墓前奉謝慰霊祭が執行される。七、御宝物 ・江島縁起絵巻 五巻 金界天地金箔切砂子紙本 狩野派人、延宝年間の筆になると云う。・江島縁起 一巻 朱界紙本、奥書に云う。永承2年7月26日、延暦寺伝燈大師の作、享禄4年7月28日、肥後住人清鏡乗海筆。・得瑞島上宮縁起 一巻 黒界紙本。・八臂弁財天御尊像 一体 檜製、施彩色、座像。重要文化財。・妙音弁財天御尊像 一体 檜製、座像。1尺8寸 ・弁財天像 1面 天長7年7月7日、空海御窟に参篭し、護摩修法の灰を以て作る。裏に大師の手形がある。・制札 1枚 大鷹紙、天正108年卯月、豊太閤江島寺に於て軍勢等乱暴狼藉を禁制としたもの。・文覚上人扁額 1面 石彫。長方形で金亀山とあり、養和2年、文覚上人の筆。・役行者像 1体 楠製。丈1尺4寸、役小角の自作と云う。・江島大草子 ニ巻・江島大明神額 一面 檜製、長方形。建治元年9月22日書、後宇多天皇の勅額であると伝えられる。・8方睨亀扁額 1面 抱1筆。・大太刀 1口 肥前国河内大椽藤原正広。重要文化財。

御祭神

田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)

祭礼

2月23日
天長祭(てんちょうさい)
1月1日
歳旦祭(さいたんさい)
1月3日
元始祭(げんしさい)
1月7日
昭和天皇祭遙拝式(しょうわてんのうさいようはいしき)
2月3日
節分祭(せつぶんさい)
2月11日
紀元祭(きげんさい)
2月17日
祈年祭(きねんさい)
3月下旬
貝祭(かいまつり)
4月3日
神武天皇祭遙拝式(じんむてんのうさいようはいしき)
4月初巳日
初巳例大祭(はつみれいたいさい)
4月29日
昭和祭(しょうわさい)
5月中旬
杉山検校祭(すぎやまけんぎょうさい)
6月30日
水無月大祓式(みなづきおおはらいしき)
7月1日
海開き(うみびらき)
7月7日
七夕祭(たなばたさい)
9月9日
龍宮例祭(わだつみのみやれいさい)
10月初亥日
古式初亥祭(こしきはついさい)
10月17日
神嘗祭遙拝式(かんなめさいようはいしき)
10月17日
神嘗祭奉祝祭(かんなめさいほうしゅくさい)
11月3日
明治祭(めいじさい)
11月15日
七五三祈願祭(しちごさんきがんさい)
11月23日
新嘗祭(にいなめさい)
12月31日
師走大祓式(しわすおおはらえしき)
12月31日
除夜祭(じょやさい)
毎月1・15日
月次祭(つきなみさい)
毎月巳の日
巳ノ日祭(みのひさい)
1月成人の日
成人祭(せいじんさい)
3月春分日
春季皇霊祭遙拝式(しゅんきこうれいさいようはいしき)
9月秋分日
秋季皇霊祭遙拝式(しゅうきこうれいさいようはいしき)

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