神社情報

人皇十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ開墾開発された。そしてこの地を「柳田郷」と名付け、彼らの祖神たる櫛稲田姫命、素盞嗚尊、大己貴尊(又の名 大国主命)を守護神として、石上台、又の名伊勢神台(当鎮座地北西一kmの台地)に祀り社殿を結構し柳田大明神と称して地域の親睦発展は元より、子々孫々に到るまでの弥栄を祈願したのである。この柳田大明神が六所神社の旧名であり、御創建は崇神天皇甲申の年と言われ、今から約2050年~2100百年前である。柳田大明神の御加護の元に氏族の人々は心を一つに和して開墾開拓に辛苦努力を重ねられ、東国開発の基礎を固められ又相模国の形成に多大なる貢献をなされた。大化改新後国の行政も次第に整い国司の制度が始められてゆく中に、元正天皇の御代養老2年(718)閏4月8日、石上台より現在の鎮座地に奉遷。暦勅を以って相模国八郡神祇の中心をなすべき旨宜下された。桓武天皇天応元年(781)5月5日、早良親王夷賊征討に際し退壌祈願あり。平安時代に入って相模の国府(今の県庁)が柳田郷に置かれるようになると、柳田郷の地名も相模の国府と称せられるようになった。大化改新以来、国司は任国に着くと先づ神拝と言って国中の主たる神々を順拝し国幣を頒つ制であったが、順拝は大変な日数と費用と人員を要するため、主たる神々の御分霊を合わせ祀る社即ち総社を設ける習いとなった。相模国の場合、柳田大明神に、一宮寒川神社、二宮川匂神社、三宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚の八幡宮の分霊を合わせ祀り相模国総社の成立を見ました。又六ヶ所の神社合わせ祀る所から国府六所宮とも称せられるようになった。相模国府祭(神奈川県無形文化財)もこの時代から「お祭り」の性格を持つようになったと思われる。そして鎌倉時代になると、源頼朝の崇敬誠に篤く『吾妻鏡』によると治承4年(1180)10月16日の条、平家の大軍が平維盛を大将として富士川に攻寄った時国府六所宮にて戦勝祈願を行う。同年10月23日、源頼朝は北条時政等25名の功賞を行う。その規に依り、文治2年(1186)、本殿の改造が行なわれ、建久3年(1192)8月9日、源頼朝の実子実朝の安産誕生祈願の為神馬奉納「総社柳田」と記す。建長4年(1252)4月14日、宗尊親王将軍の事始に幣帛神馬を奉納以上の様に源頼朝は総社六所宮に対する敬神の念誠に篤く、又相模国を代表する神社として崇敬し特別扱いをしている。戦国時代には戦国の雄北条早雲の崇敬も大変篤く御子氏綱が永正年間(1501~1520)に六所宮の御社殿御造営、又四代目左京大夫氏政公が御本殿の修復を行いこの本殿が現在のものである。天文13年(1544)12月23日付のね北条氏寄付状があり相州6所領65貫78文とある。又大納言徳川家康も相模国総社六所宮に対する崇敬の念誠に篤く天正19年(1591)、武運長久の祈願として六所領(15000坪)50石の寄進状御朱印があり、徳川家光は慶安元年(1648)、国家安全祈願として五十石の寄進状御朱印があり、以後歴代の将軍の特別なる祈願と六所領の寄進があり明治に到っている。
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