神社情報
創立 御創建は地誌や「新編相模国風土記稿」によれば、文明堤鎭護のため神禹詞を堤上に建てたことが礎であり、宝永4年(1708)、富士山が噴火してより今年で約278年目を数えている。旧社格 従来、無格社であったが、明治42年8月20日、村内にあった9社と文明社を合祀されて村社と指定された。昭和28年12月28日、法人令による、宗教法人「福澤神社」として発足、現在に至っている。社号 神号を文明、また大口文明の神と称えてきたが、明治42年以降、福澤神社と改称した。祭典 祭典の行事は必ずと云ってよいほど、浄瑠璃が奉納され衣装は勿論のこと、役付まで地元の有志により実演されてきたことは「風土記」に『宝永五年の洪水に堤が、再度崩壊民屋流失』とあり更に「幕府の乞」により『近境の鬼子母神に祈念して陀羅尼、一巻を川に投じ功を終えた』と記述されているが、これらは至難であった堤をせき止められたことに対し地先に住いする者達が、慰霊報恩感謝の真心を献げる趣旨に基づいたものであることが考えられるが、語りつがれた実現への努力も時代社会の変遷により衣装の保持と後継者の苦渋により文化財保存が考えられていたが、継承できず古老者の語り草であることは惜まれることである。例祭日は5月5日に定められ、子供の日にちなみ心身鍛練など剣道が奉納されたが、場所の関係で中止となり、現在は地区青年の協力によって子供相撲が奉納され、女子若連の花神輿も催されている。秋祭は10月9日かつては馬匹強励により河川敷の馬場により近隣とわず県内至る地方より競馬(きょうば)のため旗競馬が催され、例年壮観のきわみであったが今は面影をとどめるのみである。御神殿 本殿・幣殿・拝殿とも素木であり29坪5合・権現造り 現在の御神殿は合併時の明治42年8月の建造であるが、長年による風雨により水漏等生じたので、昭和50年6月18日、ご神殿屋根改修の決定をみて同年8月13日、建設資金の奉加協力を区内に懇請して、11月20日、契約の取交わしをして翌年4月6日、完工をみた。この総工費は330萬9857円である。工作物 境内入口に大鳥居1基 以前から献立されていたものであるが当地の武藤亀次郎・市川繁次郎の両氏が昭和7年10月、御影石(花崗岩)で再建寄贈されたものである。玉垣 側面と前にめぐらされているが、側面は昭和8年5月吉日、後方は市川繁次郎同千代氏によって、なお前面は昭和11年11月吉日、奉献された。手洗鉢 くりぬきの大石で造られ年代は不祥であるが古く価値あるものである。石燈篭 左側に1基、なお同型が左右一対基あり右側に正一位稲荷神社と刻まれ、いずれも明治42年、合祀時移献されたものである。近くは後方道路添いにコンクリートへきが酒匂産業㈱本多次郎氏により昭和50年2月~4月にかけ奉献、賽銭箱は鉄製型を市川隆、市川恒秋、福田きぬ氏3名によって奉献されている。石碑 御本殿右側に文明堤のいわれが刻まれ、その手前に堤構築のため貢献のあった当時の田中丘隅(きゅうぐう)によって堤の碑が建立されている。年代は「享保午夏起」と記され旧暦8年の夏が推察されるので、噴火後約15年目であり今から約263年前のことである。大鳥居の右側には文明用水碑が建てられ、水に対する恩沢と苦渋さが記されている。境内地 現況は139坪であるが、登記坪数は71坪であり58坪は帳簿上、共有地になっているので、共有者の造詣と理解により寄進の意向により総坪数として編入されるよう努力されている。縁起(つぼ石の由来) 富士山の噴火は宝4四年であるから今から約278年前のことである。古文書によれば、「焼石、砂降り深くて一丈もあり青草見えぬところ数百里」とあり、また「酒匂川上流大口周辺も埋まり大水が溢れ田畑や家を流した苦しみが20年も続き妻子を連れ住居に迷ったその辛惨たる状は表舌できず」、村民たび重なる水害に堪えず愁訴す、時の幕議もこの秋、放置できず、と町奉行大岡越前守忠相にその復興対策を命じ、武州の田中丘隅に堤防復興を委ね彼も「尭王の臣であった禹が治水の業たくみであったので、その先例を取り入れ蛇篭に石をつめ、かつ土を集め水除堤を築きその礎をなし遂げたが、此の功なった此の堤を永続させ神の授(たすけ)を乞うべく堤のほとりに禹王を祀る社を建て、社建立完成を卜占して例祭を1月1日に定む。故もて4月1日、例祭日には老若男女の別なく神の恵を受けねばと参詣時、土、石を必ず運び堤にあげ、祭祀の行事としてきたことである。この行績を永々、末代までこの村が続く限り守りぬこうと申し合わしたことであった。注釈(各部落別に石を堤防へ積みあげることを恒例としてこれをつぼ石という。)堤上に祀った文明の社は享保11年4月、修築されたが、此のとき事蹟を伝承するため碑石を設け東側にあるので、文明東堤の碑といい我流瀬の方にある西側の碑を文明西堤の碑といい明治43年、此の文明社に九柱の社霊を合祀してより福澤神社と称するようになった。記録はさかのぼるが、尚、享保11年、幕府は文明堤構築の功をめで、百姓一同が力を合わせ至難を成し遂げし苦労と努力に対し金100両を下賜さる。村民相議し田中丘隅の了諾も得、村々に柿を主とした果樹を家々に植え、生育後、秋の祭には必ず神前に吉き品を備えることを申し合わせたことである。編集後記 以上の縁起は土地に残された古文書に寄るものであり、努めて原文そのものとした。昭和47年8月、刊行された「新編相模風土記稿」にも、宝永5年の大洪水の惨状が記され村民の愁訴あり江戸幕議のこと大岡忠相が心を労したこと武州川崎宿の田中丘隅による功績に至る状況が著わされているが、吾われ福澤地区の方は勿論のこと特に斑目・千津島・壗下・竹松の地区を始め現在氏子区域外であるが、開成町の岡野・下方の和田河原区を含む六地区はかつての文明社(山王社・水神社を含む)が鎮守の社でもあり忘却してはならないことは昭和10年頃まで続いた「つぼ石」のことであり地区名も皆水害に関係した名称になっている。新体制下とは云え一度でもより多くあの堤を固めようという当時の人々達の悲願は地区をあげ年3回の祭祀として怠りなく継承されかつ例祭日5月5日には堤上隈なく市が2日にわたって催されている発端は悲願でもあり、命の綱とも考えた農耕の具を並べ地区農民の誠意を神に照覧ねがったしぐさでもあり「相模風土記稿」を推察すれば享保11年4月の例祭からであることがうかがわれる。今を見る堅固な堤も決して機械力のみで出来たものではなく大半以上が土地先住者の人力によって積み重ねられたものであり堤を共にしようと闘ってこられた行績を偲び、称えずにはいられない。水害鎮護の神として祀った禹神と明治42年8月30日、本神社の宗祖と仰ぐ天照大神を始め山の神・水流支配の神・稲穀生産の神・人為思惟交流の神とうが合祀され福澤神社と改称こそされたが、約263年間平温である今日を迎えるまであの堤上に生える老松が悲喜交々堤を始め地区内隈なく御守護なされる神として鎮座なされるいわれを造詣し深めると共にわれわれ地区内先住方々のご意志をも歳々心を新にして安住して生業につける恩顧に感謝し神意に応え、ますますこれが発揮されるよう努めなければならぬと思考される訳である。
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